光が丘周辺 地名の由来
 
 

光が丘 (ねりまの地名今むかし・光が丘新聞・昭和60年2月11日号より抜粋)
昭和18年、土支田、田柄、高松にまたがる広大な土地は成増飛行場となった。戦後飛行場跡に米軍宿舎が建設されることになり、グラントハイツと呼ばれた。昭和35年ごろから土地返還運動が起こり、返還の展望が開けた44年、緑と太陽のまち練馬を象徴して区域全体に「光が丘」の町名を住居表示した。

旭町(ねりまの地名今むかし・光が丘新聞・昭和59年11月11日号より抜粋)
旭町は、昭和7年板橋区成立のとき練馬土支田町1丁目となった。 昭和22年8月、練馬区が板橋区から独立し、昭和24年1月1日より練馬の冠をとることになった。その際、町会有志を中心に町名変更が発議された。土支田1丁目では字数が多いし、土(どろ)くさい。希望のもてる明るい簡単な町名がよいよいうことで旭町に一決したそうである。

田柄(ねりまの地名今むかし・光が丘新聞・昭和60年3月11日号より抜粋)
寛永16年(1639)の検地帳にみられる古い地名だが、その由来は定かでない。この辺のことを江戸の地誌『四神地名録(ししんちめいろく)』は「畑在所にて田方一分(いちぶ)ばかり、風土にすぐれず広きというのみ」といっている。わずかな田も、水利はほとんどお天気まかせ、水の涸(か)れた空(から)田んぼがあちこちにり、田の作柄はあまり芳しくなく、年貢の率は、よそに比べて低かった。

北町(ねりまの地名今むかし・光が丘新聞・昭和59年6月11日号より抜粋)
昭和6年にようやく東上線東武練馬駅が出来ると、付近に住宅が増え、商店街が発展してきた。翌7年市郡合併で板橋区になったとき、旧下練馬村の北の端だというので「練馬北町と名付けられた。現在の町名は、昭和41年に旧町名を踏襲して住居表示に実施された。

高松(ねりまの地名今むかし・光が丘新聞・昭和60年5月11日号より抜粋)
江戸時代は上練馬村の小名(こな)のひとつであった。地名の由来は村内にこずえの高い松があったからとの言い伝えだが、今はその場所も明らかでない。

土支田 (ねりまの地名今むかし・光が丘新聞・昭和60年6月11日号より抜粋)
土支田は土師田すなわち土師(はじ)器を作る人たちが住んでいたところという説がある。白子川流域には土師器の遺跡が多いし、遠くない貫井からは土師器を焼いた窯場跡が発見されている。また、土支田の支はキと読むのが正しく、齋田(ときた、神仏に供える田の意)と解する説もある。

春日町(ねりまの地名今むかし・光が丘新聞・昭和60年5月11日号より抜粋)
春の日のカスガと優しく、雅だが、語源はいまひとつはっきりしない。春日町の名の起こりは、旧村社春日神社(春日町3-2)に由来する。鎌倉時代、工藤祐経の孫、祐宗が頼朝に従って奥州征伐に向かう途中、自分の先祖藤原氏の氏神である大和春日神社の祭神をここに勧請(かんじょう)して戦勝を祈願したのにはじまる。

著者/郷土史研究家・桑島新一

 
 
 
光が丘周辺の歴史
 
 

豊島氏の菩提寺である、道場寺(石神井)にある豊島泰経一族といわれている墓
●旧石器・縄文・弥生時代の遺跡は、石神井川、白子川流域から多く出ています。古墳遺跡は5mくらいの高さの小さなものですが、確実に古墳であると断定されていません。
●平安末期、朝廷の支配力が地方にまで及ばなくなった頃、地方の豪族や有力農民の中には、自分の土地を守るために武力を備え武士になる者がいました。関東地方では、桓武(かんむ)天皇の子孫を棟梁とする平氏で、板東八平氏といわれ、中でも秩父氏が勢力を振るいました。その一族は平安時代末頃には荒川を下り、武蔵の国豊島郡の中心であった石神井川の下流付近の荘園領主となり、豊島氏と名乗りました。
●豊島氏は、まず荒川河口に平塚城(北区平塚神社付近)を築き、石神井川をさかのぼり板橋城、練馬城、石神井城を、また荒川沿いには志村城、赤塚城を築き鎌倉時代末期には練馬・板橋一帯は豊島氏の支配下におかれました。当時の城は、土塁を積み上げた程度の小さな砦でした。
武士、農民の生活の基盤は城を中心に3、4キロの細長い流域の低地を利用した水田で、城と城の交通には水路が大いに利用されました。
●平安末期、源頼朝の呼びかけに応じた関東の武士の豊島清光、葛西清重、江戸重長らは、建久3年(1192)約3万の兵を率いて相模の国で平家を倒し、頼朝は鎌倉に幕府を開き、豊島清光は頼朝の厚い信頼を受け、有力御家人となりました。
●室町時代末期になると、国の秩序が乱れ、武士同士が対立する戦国時代となっていきます。文明9年(1477)太田道灌は江戸城をたち、豊島泰明(やすあき)の平塚城(北区)を攻め、城下に放火。兄の19代宗家・豊島泰経(やすつね)は弟を助けるため江古田ケ原・沼袋(中野区)で戦いましたが、弟泰明をはじめ150名もの戦死者を出し敗退。豊島泰経は残兵をまとめて石神井城にたてこもりましたが、太田道灌の軍に敗れ、平安末期から500年余りにわたって練馬の地を支配していた名族豊島氏は消えさりました。
●その後、太田氏(1478-1524年)の支配から、小田原の後北条氏(1524-1590)の領地へと変わり、後北条氏が豊臣秀吉に敗れ、その領地であった関東の大部分を徳川家康に与えました。
●安土桃山時代、天正18年(1590)8月、徳川家康が江戸城に入り、翌年には検地に着手し、兵農分離を進めました。

たくあん漬け最盛期の大泉の農家(昭和12年頃)
●江戸時代、現在の旭町、土支田、東大泉と光が丘公園辺りは土支田村。田柄、春日町、高松、光が丘団地、向山、貫井辺りを上練馬村と呼んでいました。村々は田が少なく、畑が多かったので大根・ごぼう・いも・なすなどの作物を作り、ひえなどの雑穀も多くこれらを主食にしていたようです。
●農民の年貢は、田は米で納め、畑はお金で納めることになっていました。練馬地区は畑が多かったので夜中の1時頃起きて野菜を車に積み江戸(京橋)の朝市(午前7時から8時)に間に合うように家を出て、売り終わって帰りには町屋や武家屋敷から作物の肥料として下肥を積んで昼過ぎに帰ってくる大変な重労働をして作物をお金に換えていました。
●この他、助郷役(すけごうやく)という村の石高に応じて宿場間の輸送の手伝いとして人手と馬を出す年貢もありました。村の収穫高百石(1石は150キロ)に対して人夫2人、馬2頭を宿場に出さなければなりません。延宝3年(1675)上練馬村の石高は約2500石だったので、人夫50人・馬50頭を中仙道板橋宿まで、土支田村では板橋宿と白子宿へ働きに出さなければならず、これが月に何度もあり大変大きな負担でした。
明治に入り、土地の私有が認められると地主たちは私有地を増やし大地主となり、農民の多くは小作人という状態になりました。
●明治5年(1872)学制が発布され豊渓学校(豊渓小)などが作られましたが、村人は貧しくなかなか児童が集まりませんでした。明治11年(1878)練馬区周辺は、郡区町村編成法により東京府北豊島郡となりました。 明治27年(1894)から翌年にかけての日清戦争、明治37年(1904)から翌年にかけての日露戦争の頃になると、軍隊用に大麦、たくあん漬けが大量に生産されるようになりました。
●大正3年(1914)東上鉄道が池袋・川越市間に開通し、その後武蔵野鉄道(西武池袋線)、川越鉄道(西武新宿線)が開通し、明治13年(1880)開業の白子乗合馬車と川越・千住大橋・花川戸を結ぶ新河岸舟運は急速に衰えていきました。 大正12年(1923)の関東大震災の後、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪辺りの宅地化が進み野菜供給地としての練馬の地位も上がりました。

終戦直後の成増飛行場
●昭和7年(1943)現在の板橋区と練馬区は、東京都板橋区になりました。 昭和14年、東京周辺に緑地帯を設ける計画があり、大泉から土支田にかけて東西にのびる地域が含まれていました。昭和16年には防空緑地という計画に変わり、昭和17年、現在の「光が丘」の地に成増飛行場が建設されることになりました。田柄、土支田、高松の人々は先祖伝来の畑や田ぼを手放すことになり、昭和18年の春から用地接収でこの地区の約80世帯に立ち退きを求め、8月に工事開始、12月には飛行場として使用を開始しました。 戦局が激しくなると、ここから飛び立って行った特攻隊の若い人たちの尊い命が大空に散っていきました。第2次世界大戦末期、この付近は成増飛行場の他、北町の陸軍練馬倉庫、朝霞の士官学校、軍事工場となった練馬北側の鐘紡練馬工場などが空襲の標的とされ、多くの焼夷弾や爆弾が投下されました。
●昭和22年(1947)8月1日、練馬区は板橋区の一部から独立して23区のひとつとし発足しました。
●戦後、昭和21年東武東上線の上板橋駅から北町の旧陸軍倉庫まで施設されていた鉄道線路をグラントハイツ建設地まで延長して引き込み、建設司令官ケーシー少将の名前をとってケーシー(啓示)線と呼ばれました。 22年春頃から、この線路を使って運び込まれた資材で、アメリカ軍の家族宿舎建設が始まり、昭和23年6月に完成し、アメリカ第18代大統領ユリシーズ・シンプソン・グラントの名をとって「グラントハイツ」と命名されました。ケーシー線の貨物量はグラントハイツ完成後は大幅に減りました。 昭和34年、グラントハイツ居住者約1,200世帯の立川・横田基地への移転が決まり、かってこの土地の所有者たちは土地返還の陳情を行いましたが却下されました。ケーシー線は廃線となりました。 昭和43年12月、米軍は代替地を条件に返還してもよいと表明。44年グラントハイツ跡地一帯を「光が丘1番」と表示。48年全面返還にこぎつけました。
●昭和56年12月26日、光が丘公園が一部開園。昭和58年3月、「光が丘1番」から「光が丘1丁目から7丁目」へ表示変更し、都営住宅、公団住宅への入居開始。平成12年(2000)大江戸線開通。

私たちの練馬2002 練馬区教育委員会発行より抜粋