成増・赤塚 地名の由来 
 
 

赤塚は、関東ローム層の赤土が至る所で見られた地域で、地名もそれに関わるものと思われます。地名の起こりは、赤塚8丁目松月院の門前にかってあった塚(古墳)を土地の人は恐れ近づかず、その荒れた塚「荒塚」が「赤塚」に訛ったという説があります。 この塚の上に社を祀り、鳥居に「赤塚」と書かれた額が掲げられていたと言われています。

成増は、以前赤塚郷六か村のひとつで石成(いしなり)と言われていました。石成の由来は、地勢的に石鳴(いしなり)、石動(いしるぎ)など考えられますが不明で、今は清涼寺(赤塚4丁目8番)の石成山という山号や、寺の前の石成公園に名が残っているだけです。
「なります物語」
の著者星野克行氏は、その本の中で、「農具にもやっと鉄器が使われ始め、火山灰や火山弾の台地であった武蔵野の開墾が土豪の武士団によって進められた時代、石ころだらけの芒(すすき)の原野を拓(ひら)いて田畑に成らしめ、そこから『石成』となったと想う」と述べています。
成増の地名は、 元禄中改定図から見られます。伝承によると石成村の名主田中家の祖先に田中左京成益という人がいて、この地を開墾した。この「成益」が転じて「成増」なったとする説がありますが、青蓮寺にある田中家の系図によると 16代田中益清は信長の下で武功を挙げましたが傷を負い、やむなく戦陣より退き赤塚村に一族郎党13人と共に移り住み、益清と17代田中左京成益親子は村人を指導し荒地に鍬を入れ切り開き、自らを「郷士」と名乗ったとあります。只、残念なことに成益は29歳で亡くなり、天文(てんぶん)年間(室町時代後期)のことでした。
新田をどんどん切り拓き田畑と成し、富がますます増してゆくという目出たい言い伝えもあると、前出の星野氏は著書の中で述べています。

文化財シリーズ第81集「いたばしの地名」 発行/板橋区教育委員会より
「なります物語」著者・発行所/星野克行  

 
 
 
成増・赤塚地区の歴史
 
 

勾玉(まがたま)
平成5年(1993)4月国内最大級のヒスイの勾玉が発掘されて話題になる。
●赤塚周辺(特に四つ葉辺り)は大昔から自然環境の良好な土地だったので先土器・縄文・弥生・古墳・平安時代を通して遺跡があります。 縄文時代には気候の温暖化に伴い海面が上昇し、荒川沿いの低湿地は海でした。赤塚・志村地区にはこの時代を物語る貝塚が点在しています。
●奈良時代末期頃この辺りは武蔵国広岡郷と呼ばれていたそうです 。
●平安時代頃・・・大堂(赤塚6丁目)は平安初期の創建と言われ、その後永禄4年(1561)上杉謙信軍に焼かれるまでは大寺であったといいます。本尊阿弥陀如来像は、後生の修復が著しいですが平安時代末期から鎌倉末期作とされ、この地域に仏教信仰がひろまっていたと思われます。
●鎌倉時代は、北条得宗領だったと推定されます。鎌倉時代の事績を記した「吾妻鏡」の中の康元2年(1257)〜文応2年(1261)頃に、赤塚郷出身の赤塚資茂(すげしげ)の名前が見られます。
●鎌倉幕府滅亡後、足利直義の所領となりました。赤塚郷の地名が文献上で最初に出てくるのは南北朝時代の初期元弘3年(1333)で、「足利尊氏・直義所領目録」の中で、武蔵国赤塚郷と書かれています。この頃の赤塚郷は、石成・上赤塚・下赤塚・徳丸本・徳丸脇・徳丸四つ葉の六ヶ村含む地域と思われます。
●南北朝時代の康暦元年(1379)、二代将軍足利義詮(よしあきら)の正室渋川幸子は、夫義詮と自身の菩提のための供養料として石成村を除く赤塚郷を京都嵯峨の鹿王院に寄進し、幕府朝廷の保護を受けていました。しかし、室町幕府が衰える頃には在地の領主の所領になっていったようです。
●室町中期、鎌倉府は、鎌倉公方側と関東管領上杉氏が対立し、公方側はさらに古川公方と堀越公方に分裂しました。赤塚郷を支配していた武蔵豊島郡地域の名族豊島氏は古川公方足利成氏に味方しましたが、扇谷上杉氏の重臣太田道灌(どうかん)が浸食を計り撤退をよぎなくされました。

赤塚城本丸跡
山の上の広場に記念碑があります
●下総国もこの情勢で対立が起こり、市川城を追われた千葉実胤(さねたね)、自胤(よりたね)兄弟は太田道灌の助けにより武蔵へ移り、康正2年(1456)兄実胤は石浜城(浅草・橋場)に、弟自胤は赤塚城に居を構えました。この頃の赤塚郷は正式にはまだ鹿王院の所領だったので、千葉氏の支配と重複してもめていたようです。
●しかし自胤は支配を続け、延徳4年(1492)近くにあった宝持寺に寺領を寄進し松月院と改め菩提寺にしました。また、赤塚城の鬼門除けとして長禄年間(1457〜1460)に上赤塚氷川神社を、文明年間(1469〜1487)に大門にある諏訪神社を創建しました。文明9年(1477)に太田道灌と共に江古田原沼袋で豊島氏と戦い勝利を収めました。この時、武蔵豊島郡の名族豊島氏は滅亡。豊島氏に味方した赤塚一族も滅亡しました。
●その後、後北条氏(早雲〜氏直まで五代)が関東に勢威を振るい、北条氏康が作成したとされる「小田原衆所領役帳」に「千葉殿 八十貫文 江戸赤塚六ヶ村」とあります。武蔵千葉氏もその支配下に入り、旧領地の下総方面にまで勢力を伸ばし、武州千葉氏134年間の基礎を築きました。
●安土桃山時代、小田原北条氏滅亡直後の天正18年(1590)、徳川家康は江戸城を本拠に新領国決める作業に着手。土地は天領直轄となり、石高を決め年貢を徴収しました。また、人心の安定を図るため、神社仏閣を調査し、名刹に朱印地を与えました。当時下板橋にあった浄蓮寺や松月院などには区内最高の40石が寄進されました。
●江戸時代の風土記稿によると、赤塚の家数は、上赤塚村204戸、下赤塚村207戸、成増村69戸、徳丸本村149戸、徳丸脇村35戸、四つ葉村47戸となっています。 中山道、川越街道も整備される一方で、新河岸川が改修され、川越と江戸花川戸との間に舟運が開け物資の交流が行われました。板橋地方は板橋宿を除いて殆ど純農村地です。赤塚の台地上では畑作で麦雑穀類大根人参などの野菜を生産し江戸に供給しました。荒川の低地や溜池を整備し水田耕作もしました。

洋式火砲の記念碑
●五代綱吉によって禁止されていた鷹狩りを八代吉宗が復活し、江戸の周囲五里の範囲を葛西・岩淵・戸田・目黒・品川の六筋に分けて将軍の鷹場に指定しました。赤塚六ヶ村は戸田筋に組み込まれ鷹狩りの場所として代々の将軍が訪れました。高島平一帯は、志村の原に続く広大な原で、徳丸が原呼ばれ鷹場であると同時に幕府砲術調練の場所でもあり、「からくり筒」の試射なども行われました。
●江戸後期の天保12年(1841)5月、長崎の町年寄・高島秋帆(しゅうはん)は、川越街道から下赤塚の松月院に入り、ここを本陣として洋式火砲の実弾射撃や歩騎兵の軍事調練を徳丸ケ原で行いました。この時の西洋式調練は当時の国際情勢から広く話題となり注目を集めました。
●明治2年(1869)になり、徳丸ケ原は民間に払い下げられて、開墾され水田地帯となりました。赤塚田圃、徳丸田圃と呼ばれ、面積は50万坪。 明治5年(1874)8月には学制公布があり、明治7年板橋区内で2番目に徳丸村の安楽寺に紅梅学校が開校。続いて明治9年下赤塚村の泉福寺を借用して下赤塚学校が、翌10年(1877)に上赤塚村の清涼寺に石成学校が開校しました。
●明治22年(1889)、町村制が布かれ東京府北豊島郡赤塚村となり、その下に大字を冠されて成増や下赤塚などが入ります。この体制は昭和7年1月1日(1932)の東京市板橋区の後に徳丸が合併され徳丸本町などの町名がくるまで続きます。
●大正3年(1914)5月1日に東上鉄道が池袋、川越田面沢(たものざわ・今の川越市駅と霞ヶ関駅の間)に開通しました。区内の駅は下板橋と成増の2駅だけで、成増駅は現在の駅より少し和光市よりの所にありました。小さな蒸気機関車「ベビーロコ」で池袋・成増間を28分で走っていました。下赤塚駅は昭和5年、東武練馬駅は昭和6年に開設。
●大正12年9月1日、関東大震災で東京府民の60%が住む家を失い、郊外へ流れましたが、赤塚地区は東京の発展の影響は殆ど受けない、人口も少ない農村地帯でした。
●光が丘公園、団地一帯は、見渡す限りの麦畑・大根畑でしたが、昭和18年6月頃から首都防衛を目的とした飛行場建設が始まり、10月頃には成増飛行場が整備を終え、昭和20年(1945)8月の終戦まで使われました。昭和22年4月から米国駐留軍の住居地となり、アメリカ合衆国第18代大統領グラントから名をとり、グラントハイツと名付けられました。その後、昭和48年9月に全面返還され、光が丘公園と団地になりました。
●昭和40年代に入り、急速に宅地化が進みました。昭和47年、下赤塚町、上赤塚町の町名は無くなり、現在の町名になりました。
●昭和58年(1983)営団有楽町線の池袋から営団成増、小竹向原から新桜台間が開通しました。

参考資料 文化財シリーズ第76集「まち博ガイドブック・下赤塚・成増・徳丸・高島平」
発行/板橋区教育委員会 より抜粋