白子周辺 地名の由来
 
 

渡来人の移住
続日本書紀(しょくにほんぎ)より


666年百済人2000余東国へ
685年百済人23人武蔵へ
587年新羅人22人武蔵へ
715年高麗人1799人高麗郡作る
758年新羅人74人新羅郡へ
760年新羅人131人新羅郡へ
奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれていました。新羅(しらぎ・古代朝鮮3国のひとつ)や、高句麗(こうくり)、百済(くだら)から渡来人がこの辺りに移住したためと考えられます。
新羅郡は平安時代の頃には新座郡と記され、大和言葉で爾比久良郡(にいくらこおり)と読まれるようになりました。
新座郡の中で、この辺りは志楽木(しらき)郷と称し、のちに志未(志木)郷となりました。志未は志楽の草書体からきたものとされています。「新羅」が「新座」となり、その読みから「新倉」とうい地名ができ、また、「白子」も「しらぎ」が変化した地名と類推されます。
「図説和光市の歴史」和光市発行、他より
・ちなみに、朝霞の地名の由来は、朝霞にあった東京ゴルフクラブの総裁だった「朝香の宮さま」からきているとのことです。

・現在、朝霞市、志木市、和光市、新座市の四市合併協議が進行中ですが、歴史のある地名は残したいですね。
   
 
 
白子周辺の歴史
 
 
●奈良時代と思われるは遺跡は和光市内からはまだ発見されていません。平安時代の遺跡は各所から発見されていますが、当時和光市内の台地は住居可能地が狭く、遺跡、遺物の散布範囲は白子川流域に小規模の遺跡が見られるだけです。上新倉の牛王(ごぼう)遺跡は新羅王居跡で、むかし新羅の王子が都からやってきて、この地に居住したと伝えられていますが、この伝説がどのくらい信用できるものか、それを確かめる手がかりはまだありません。
● 平安末期には朝廷の支配も崩れはじめ、集団で武力を高めていく豪族や有力農民がでてきました。入間郡、多摩郡、新座郡の地方には丹党、横山党、村山党、児玉党など武蔵七党の活動が著しく、この辺り練馬区から和光市にかけては、児玉党の流れをくむ庄(荘)一族がかなりの実力を持っていました。その上地方官として関東に勢力を拡大した桓武(かんむ)平氏の一族が、常総、下総とならんで武蔵秩父地方に力を振るい、河越氏、江戸氏、畠山氏、小山田氏、稲毛氏、豊島氏、葛西氏などはみな秩父氏の分派で近隣の武士団の指揮をとりました。この地域は豊島氏の支配下でもありました。南北朝時代には赤塚郷など白子川下流域は、京都の鹿王院(ろくおういん)の領地になったので、白子川の用水争いがありました。
●室町時代中期以降になると国の秩序がみだれ武士同士が対立する時代になります。鎌倉府は、鎌倉公方側と関東管領上杉氏が対立し、公方側はさらに古川公方と堀越公方に分裂しました。武蔵豊島郡地域を支配していた名族豊島氏は古川公方足利成氏に味方しましたが、文明9年(1477年)扇谷上杉氏の重臣太田道灌(どうかん)に滅ぼされました。太田道灌は勢力を拡大し、川越あたりまでを支配するようになり、死後は小田原の後北条氏が関東を支配しました。
●天正18年(1590)、関東は後北条氏に代わって徳川家康が支配するようになりました。家康は、関東の各地に家臣を存在させるに当たって、小領主を江戸に近く、大領主を江戸から比較的遠い所に配置しました。このころ新座郡(にいくらこおり)現在の和光市辺りは、上新座村、下新座村、白子村の3か村ありましたが、どの村も江戸から5里ほどで比較的近く、上新座村は板倉勝重の領地、下新座村は天正18年当時は家康自身の領地でしたが、寛永11年(1938)に酒井忠重の領地になりました。どちらも大名ではなく、古くからの家康の家臣で共に東海地方から移ってきました。 白子村と橋戸村(練馬区大泉町)は伊賀衆とよばれた200人もの家臣団の領地となり、伊賀の国から家康と共に移ってきました。
●寛永年間の家康による検地で村の石高がきめられました。寛永検地からおよそ10年後の正保年間の石高(1石は米に換算すると150キロ)は、上新座村500石、下新座村約400石、白子村145石で、どの村も田の比率が高く、畑は田の半分くらいの石高でした。年貢は、田については米で払い、畑については貨幣で支払われました。 また、年貢の他に野銭もおさめました。これは村の周辺の広大な野原や、荒川茅原の草を堆肥、馬の飼料、燃料、屋根の葦材料に利用する為の税金です。 さらに、川越街道の宿場間の輸送の手伝いに、人手と馬を村の石高に応じて出す助郷役(すけごうやく)の負担がありました。 白子村は、白子宿を発展させるために立てられた市などにより町の性格を濃くしていきました。
「図説和光市の歴史」和光市発行より
「白子不動案内図」(田中浅右右衛門家所蔵)
●江戸時代後期の白子宿は、「町並みの両側に清潔な水がみなぎり流れてうるおっている。街道沿いの家には井戸を持つ者もなく、水車を作り米などついている。この清流は遠くからくるのではなく、駅中程の西側亀屋清吉とかいう旅宿(はたご)の際から小路に入って半町足らず、左の高みに不動堂があり、この前の御手洗(みたらい)より水が湧きだしている。白子一駅の人民の助けになっているが、池は大きいともいえず、3、4間(1間は1.8メートル)四方もあるだろうか。奇々妙々の霊地である」と書かれています。
白子川を知っていますか/平成6年4月発行 白子川汚濁対策協議会 より
川越街道と白子宿
●川越街道は、15世紀に江戸城と川越城を築いた太田道灌が、両城を結びつけるため、部分的にあった古道をつないだものが起源と考えられており、後の川越街道の東を蛇行していました。近世の川越街道の完成は松平信綱が川越城に入った寛永16年(1639)以後のことで、川越往還と呼ばれていました。 幅4、5間(7-9メートル)で板橋宿(板橋3丁目)で中山道と分かれ、上板橋、下練馬、白子(和光市)、膝折(朝霞市)、大和田(新座市)、大井(大井町)の6宿を通って川越まで続き、道幅を半分以下に細めてさらに北へ進み川島、松山、大里を通って中山道熊谷宿へ続く道です。松山から小川、寄居を通って秩父へも行けました。このため秩父参詣に行く者や、行きは青梅街道を通って青梅、秩父を回り帰りに川越往還を通る者など利用は多かったようですが、幕府が重要視したのは公的な通行です。
●公的な通行は、川越御用、公儀鷹方御用、大名の江戸参府、大名の菩提所参詣などがあげられます。公用旅行者は必要な人馬の数、駕籠(かご)、目的地、通行日を記した人馬通知書(先触)を各宿場問屋宛に発し、宿場間の輸送の人馬を手配させてから通行しました。この人馬手配は無償と有償があり幕府御用は無償。幕府の許可を得た駄賃人馬は有償でしたが、相場より低く公定されていました。 白子宿は馬7頭、人足3人が常時用意されていましたが、川越往還の通行量は多かったので、周辺の村からの助郷役で補っていました。
●近世後期になると交通量は著しく増加し、周辺農民の助郷役負担は大変でしたが、代償として一般旅行者に対する茶屋の営業、公的使用の戻り馬の利用によって旅客輸送などが認められていたので、宿駅にとっては重要な財源でした。

新河岸川舟運
●新河岸川を輸送に利用し始めたのは、川越仙波の東照宮建設の際の用材運搬に使用されたことだと言われています。江戸に運ばれる農作物、建材や川越に向けての日用品などの輸送が増大し商業ルートとしての重要性が増し、川沿いに志木、宮戸(朝霞市)など河岸場が次々と成立しました。
●江戸時代後期の天保年間には客船として早舟を出す者も現れました。この早船は、30人から50人ほどの客を乗せ、川越新河岸を午後4時か5時に船出して、翌朝の午前8時頃には千住大橋へ、正午頃には浅草花川戸へ到着しました。 早くて経費も安い舟運に一般旅行客も便乗するようになり、旅行客収入が大きな割合を占める川越往還の宿駅は収入が激減し道中奉行に訴えでて、荷主以外の乗船は禁じる判断がでましたが、嘉永5年(1852)新規に早舟の営業が始まりました。
●明治13年(1880)12月に、白子乗り合い馬車も開業しましたが、大正3年(1914)5月1日に池袋と入間川東岸の田面駅(川越市)間に東上鉄道が開通し、白子宿も急速に衰えていきました。 「さいたま歴史街道」埼玉新聞社刊より


白子の中宿水車 (明治7年頃)
水車営業、酒造り、養魚場など
●武蔵野地方で水車営業が広く行われるようになったのは、江戸中期以降からです。江戸でのそば粉やうどん粉の需要に応じたものでしたが、精米、精麦も重要な役目でした。白子川流域の水車営業が飛躍的に発展するのは明治末期から大正にかけてのことです。昭和に入ると動力の電化が進み手間のかかる水車はだんだん衰退していきました。
● 和光市には崖上、崖下があるので、各所にきれいな水が豊富に湧きだしていました。そこで古くから「酒づくり」が行われていました。2大銘柄として下新倉浅久保に「秀峰」、本村に「長泉(ながいずみ)」がありましたが、現在は二銘柄とも廃業しました。
● 明治9年(1876)、白子村の熊野神社境内に日本最初の養魚場ができました。当時の白子村は湧水があちこち盛んに沸き出しており、湧水の水温が鮭・鱒の人工孵化や養殖に適していたのです。3年目に人工ふ化養殖した鮭の稚魚を荒川、多摩川、木曽川、相模川に放流し、放流して5年後に相模川では沢山の鮭が上流にあがってくるのが確認されました。明治23年(1890)人工ふ化養殖の試験の成功を果たし、養魚場は閉鎖されました。
白子川を知っていますか/平成6年4月発行 白子川汚濁対策協議会 より