戦時中の成増
板橋区の西の玄関とされる成増は石成村の名主田中家の17代、田中左京成益という人の「成益」が転じて「成増」となったという説が諸説ある地名の由来の中で有力なようです。
以前行われた第一期再開発と第二期再開発で様々な商業施設がある「アクト1」や複合施設「アリエス」が建設され、利用者が増えるに連れて、更なる開発が検討されるなど、大きく生まれ変わろうとしている成増ですが、戦時中は、現在の光が丘は成増飛行場でした。
昭和17年(1942年)夏に田柄・土支田・高松の約60戸の人々に対し先祖代々引き継がれてきた広大な土地や田畑を強制調印というかたちで買取契約を行い建設されたのが成増飛行場で、太平洋戦争の末期、日本軍が編成した片道だけの燃料で体当たり攻撃をした若者たち「特攻隊」も飛び立っていった飛行場の一つです。戦争が終わり、もともと移転費用は現物支給で農作物の補償もなかった土地も宅地も、そして大空に散った若い命もすべて報われること無く占領軍に接収されました。
接収された土地と周辺は、昭和22年(1947年)に板橋区から独立して練馬区が誕生するとまもなく、アメリカの第18代大統領グランド将軍の名に因んで「グランドハイツ」と命名された軍人家族の宿舎が建設されました。
しかし、宿舎から離れ帰国や移転をする軍人家族も増え昭和30年(1973年)後半には宿舎内の住居者が減ってきたのをきっかけに、練馬区で返還運動が活発になり、その念願がかない昭和48年(1973年)全面返却となりました。
その地は後に数々の変貌を遂げ、3万人もの人々が住む「光が丘」と広大な公園を持つ街へと発展しました。
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